今どきの世間      20150108

 

今どきの世間     20150108

世の中がいつの間にか騒がしくなく映り始めた。昨年末のクリスマスのデコレーションでまず思ったのが、我が家から半径半キロには数十件のキラキラの飾りが出窓や植木や家門、壁面、庭一面などにそれぞれ競うように飾って寒空を温めてくれている様に僕には映っていた。

近所の子供がおばあちゃんと一緒に着飾ったおうちの前で写真を撮ってはしゃいでいた光景がよみがえるのだが、最近はめっきり装飾したお家が減り、景気を反映しての事かとも思うのだが、どうも違うような気がする。

御堂筋をはじめ、至る所でナイトスポットが出来、夜のバスツアーまでが在るほどで、外出推奨を促しすぎて、一般家庭で過ごすことが今どきの若者には必要なくなってきたのではなかろうか?

大阪城ですら装飾する時代になってしまった。そのうち、熊野古道年始めぐり青色街道 なんていって、青色LEDで飾り倒して初詣に行列ができる時代になるやもしれぬ。

お正月は、まず角松が見当たらない。以前は、玄関の脇に でん と鎮座していたし、お店の前にも、当たり前のように競って角松が飾られていた。

又玄関の上にはしめ飾りがどの家にも飾られていた。おまけに、車にまでみかん付のしめ飾りをつける輩までいたのが、今年はとんとお目見えにならないのは何故であろうか。

そういえば、凧揚げをする子供をめっきり見なくなった気がする。コマ回しなど論外、羽子板等ここ数十年音すら聞いた記憶が無い。

お正月の歌 を変えねばならないのではなかろうか、想像できない歌詞を唄わせるのは甚だおかしい。

そんなこんなで、正月が時代と共に変化変貌を遂げていると思えるのである。

僕の場合は正月といえば楽しみはおせち料理、カズノコ、煮しめ、黒豆、酢牡蠣、ナマコ、金時豆、牡蠣の雑煮、これだけはどうしても譲れないアイテムであるのだが、現在の僕の口の中の状況では、何とか無理をすれば食べれるが、非常に後で悲惨な痛みと、苦痛が顎と、のどを襲ってくる。

それでも僕は食す。それはただ単に生来の卑しさゆえに他ならないのだが、食すことで体の細胞が、少しでも息吹を感じ、目を覚ませばと願うのだ。

毎年、田舎の母や義理の姉等、忙しさと億劫さの両方で、少しづつレパートリーが減ってきている。これも、時代と共に変化していき、今は毎年おせちを料理屋にお願いしている。

疲れないで、のんびりと年を越すこともやはり大切な基本の行事でありたいと願い、大掃除は別で考えればいう事は無いのだが、、、。

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