目算のない戦い   20190709

目算のない戦い     20190709

日々の食事は命をつなぐ上で一番大切な行事であり、生活の基本です。

ただ、世の中では(食)と云う言葉の響きは ちょっとおしゃれ に聞こえないかい?

食べる(たべる)にある泥臭さが、食(しょく)になると消えてしまっているのです。

日本語のふしぎ、簡単に目を凝らすと見えてくることがあるのです。

らんち、めし、ごはん、と並べると違和感が発生するのです。 そう、らんちはランチ、ごはんはご飯が心地よく感じる私が居る事に気づきます。

これはそれぞれの環境から生まれた感覚であって、年代や人種によっても違うか解りませんが、雑誌やコラムなどの表現や、文字の持つイメージは看板や店名や商品名に繋がっているように思うのですがどうでしょう。

自分の生き様をどうしても残したい、記録したいという事は、自分が可愛いの一語に尽きる。そして、自分に関わった人たち、我が妻、我が子、我が両親、友だちまで、このつながりが支えた数奇な人生、そして誰も関わりたくない病気と、癒着する神経と、滅び行く細胞との闘いを 面白く可笑しく残せないものかと試行錯誤しているわけなのです。

これには、やはり日本語と云う表現母体を活用して、誰もがイメージしやすい人に、場面に置き換える必要がある気がする。

さらりと流れる時間の中で、ふと足を止めたくなる、そんなお話を探してみよう、組んでみよう、決して収まることの無い欠片を集めてみよう。

これからだ。

組立    2019630

組立                         20190630

小さい頃、兄からのお下がりの積み木を幾度も積み上げた。

四角の木の端っこがだんだん削れて丸みを帯びて複雑な立て方は難しくなる。

もちろん、四隅は手垢と汚れで黒ずんでいる。

いつもドミノ倒しで始まり、最後もドミノ倒しで終わる。

数が確か48個ではなかったかだろうか? 畳の部屋で、たたみのつなぎ目が来るとまっすぐに立てられず、少しずらすのだが、計算上は届いても、畳の淵の高さがじゃまをして、気が付くとまっすぐに倒れず、途中で止まることに違和感を覚え、何度も挑戦した。

すると時々、勢いと角度が思いのほか激しくなり 積み木のひとつが飛ぶように立てている積み木めがけてタックルをかますことが在る。

この時はどれもが驚くような速さで倒れて最後まできっちりとあっという間に終わってしまう。

ちょっとした立て方と積み木の足場の削れ具合で痛んだ積み木ならではの偶然に驚くのだ。

ただし、組立小屋はむつかしい。すり減った面が綺麗にかみ合わずまっすぐ立ってくれないから、とっかえひっかえで偶然を探すことになる。

そうこうしているうちに、工夫という事を自然と覚えていくような気がする。

時々幼稚園で遊ぶ友達が隣に座って笑いながら見ているような気になり、綺麗に組みあがる瞬間に(ほーら)と云いながら 鼻の下を人差し指でこすっているのだ。

誰もいないことにふと気づき、明日は外で遊ぼう と誰にともなくつぶやく。。

     すっ飛ばした記録      20190605

すっ飛ばした記録      20190605

今までの戦いの記録が少しばかり消えてしまった。

過去を辿ると 少しだけ落ち込んだり、ちょっとだけ感慨にひたってみたり、

3年間くらいの飛び飛びの記録が、記憶を呼び覚ます手段であったのだが、残念な気もする。

思い返すことは無かったかもしれないが、記録として、綴り直しとか、お話のネタにしたかったことだけは確かでした。

まあそれも仕方のない事、ここは新たな滑り出しとしてしまおうか。

常に戦い続けるには 日々これをいつも新たな幕開けとして思えないと、何処かで萎んでしまう風船のように、魂もしぼんでしまうような気がしてしまう。

右往左往することが続きすぎると、一体今何のために生きているのか自体が見えなくなってしまい耳を塞ぎたくなる。

単純に、生きることすら絵空事ではないかなんてつまらない、フラストレーションだらけの時間でしかないと思えてしまうのです。

この自分自身との葛藤はなかなか理解しては貰えない事はりかいしている。

だから、とりとめのないような言葉に意味が在るように思い込んで、少しでも希望の実をふくらませようと試みるのです。

かれこれ自分の人生の7年を (この癌闘病、復帰へのシナリオ) とするならば、余りに前に進まず、日々痛めつけられ、人間不審に陥り、何かの拍子に生きるきっかけを見つけ出そうとして、結局、ともだちと、我が息子と、家族、そして本当に生きる支えは 何おおいても 妻 の存在でしかありえない。

まだまだ成功、快復、復活、?、楽しい人生を取り戻すが一番近い気がする。