平常心 20141018
ふと思いついてここ数日の出来事を思い起こすと、海ちゃんの友達のご主人が、何時か僕が一緒にゴルフに行きたいという願い叶わず、脳腫瘍でなくなり、先日近所の美容院のご主人が、脳梗塞の恐れが在る為血管の事前治療の為入院し、4~5日で退院予定で入院し、帰らぬ人となってしまった。
あまりに命というもののはかなさ、もろさ、運命というものを考えざるを得ない出来事が立て続けに起きてしまったのだ。
何気ない毎日が、如何にすごい瞬間であるか、明日を見つめて今が在ることの凄さを人事でなく身震いしてしまう程の人生観を想ってしまう。
いつ亡くなってもいい様な生き方が理想であるなら、やはりいつも笑っていたいし、楽しんでいたいが、五感全てを喜んで迎え入れることが必須であり、それこそが嬉しい事なのでしょうね。
相手が在っての会話、人がいての感動、愛する人がいる幸せ、守る人が在る責任という人生の価値、全てを平常心で取組続けていきたいと思う。
世の中が、少しずつ無理がいってきている様に見えるのは、情報の流通があまりに早くなったことと、価値観が十人十色であり、世界中が喧騒を未だ繰り返そうとしている現状を見ていると、いつまでもあくことの無い欲望の結果であるように思える。
色んな考え方、生き方が在るもので、だから面白いのかもしれない。ただ、もう少し前を向いていたいものである。植物は太陽に向かって伸びていくのは、エネルギーを取り入れるすべを生きる事の中で実践している凄さなんだろうな。
人は誰かが云ったが支え合ってヒトという漢字が出来ていると尤もらしい意味を付けたけど、そんな人は幸せで、一人ぼっちの人の方があまりに多い世の中であるのが現状で、夢も希望もありすぎで目移りする希望が多すぎてなかなか良い実が付けられないのかもしれない。
消費と情報と生活の上の必要性の順位があるとすれば基準は何処にあるだろうか、はやりとか今の世代、今の子供の価値感の幅は想像を超えているような気がする。
上を見れば限がないくらいの凄いものがあり、下はさほどの下ではないような気がする。ただ、思考というより理性が育つ前に情報が勝手に入ってくることが大きな違和感の発生に繋がっているのかな。
人生について、今一度しっかり振り出しに戻そう。
せっかく死から蘇った命、愛しつくせる人でありたいと思っている。
まだ存在を促されているのだと思うのだ。神様が何かをするように必要以上に背中に乗っかってくれている、これも僕の人生、平常心で前を見つめてみようか。
病は本当に治るものであることを身を以て示していくこと、病気の種類も添えてね、
誰かがどこかで参考にしてくれるかもしれないんだから。
機能低下を補える生体エネルギーを諦めることなく生み続けたいものだ。