目算のない戦い 20190709
日々の食事は命をつなぐ上で一番大切な行事であり、生活の基本です。
ただ、世の中では(食)と云う言葉の響きは ちょっとおしゃれ に聞こえないかい?
食べる(たべる)にある泥臭さが、食(しょく)になると消えてしまっているのです。
日本語のふしぎ、簡単に目を凝らすと見えてくることがあるのです。
らんち、めし、ごはん、と並べると違和感が発生するのです。 そう、らんちはランチ、ごはんはご飯が心地よく感じる私が居る事に気づきます。
これはそれぞれの環境から生まれた感覚であって、年代や人種によっても違うか解りませんが、雑誌やコラムなどの表現や、文字の持つイメージは看板や店名や商品名に繋がっているように思うのですがどうでしょう。
自分の生き様をどうしても残したい、記録したいという事は、自分が可愛いの一語に尽きる。そして、自分に関わった人たち、我が妻、我が子、我が両親、友だちまで、このつながりが支えた数奇な人生、そして誰も関わりたくない病気と、癒着する神経と、滅び行く細胞との闘いを 面白く可笑しく残せないものかと試行錯誤しているわけなのです。
これには、やはり日本語と云う表現母体を活用して、誰もがイメージしやすい人に、場面に置き換える必要がある気がする。
さらりと流れる時間の中で、ふと足を止めたくなる、そんなお話を探してみよう、組んでみよう、決して収まることの無い欠片を集めてみよう。
これからだ。