京都蕃山鍼灸院
京都駅から地下鉄で北大路まで行き、バスを乗り継ぎ、北に向かいしばし歩くと、春は枝垂桜が咲く小高い神山跡の敷地内に周囲を桜でグランドの塀のように敷き詰めた広い駐車場兼庭の右手に蕃山鍼灸院では今日も朝早くから治療が行われている。
「三、四、三、外から」
「はい、了解しました」
先生と思しき強靭な体躯の人と、助手もしくは先生予備軍で有ろう白衣の二人の声が響いた。
緊張に一瞬静寂が訪れ、きりりと張りつめた空気が体育館を小型にしたような板張りの天井が高い部屋いっぱいに広がっている。
部屋の壁面と天井は藻草の煙で燻製にされた鮭とばのような色合いと重厚な重みを携えているのだが、なぜか天井にある長い蛍光灯と反射板だけが、綺麗に輝いて場違いなかがやきをはなっていた。
治療ベットは六台、マッサージベット一台が整然と配置されている。
ここは、知る人ぞ知る、当たり前すぎてこの表現は果たして如何なものであろうか、北は北海道から、南は九州沖縄までいろんな不具合を抱えた人たちがいつの間にか訪れてくる鍼灸院なのである。
「先生、〇病院でヘルニアが悪化して、骨粗鬆症になって手術をしないとだめだと云われたんですよ、完全には治らないし、最悪の場合は車いすになる可能性があるといわれて、◎病院でも精密検査をして貰って、ほぼ同じ見解で、仕方がないんでしょうか、階段が歩けないし、杖でやっと少しだけ歩くのがやっとで、どうにもならないんですよ。せめて痛みだけでも取れないですか」
「ちょっと待ってくださいね、お電話いただいた倉本さんですね、腰、足、何時頃から痛くなったんですか、病院で治療を受けたのはどれくらいですか」
「三田で枝豆作ってっから、腰が痛えんだと思って湿布を張ってやってたんやけど、ほんに立たれへん様になってからに、病院へは先週行ったんやけんど、脊椎症で手術をしたほうがええゆうんですわ。そんでもって治るんかゆうたら、杖が要る生活になる可能性がたかいっちゅんですねん。そやったらええ先生おるから診て貰ってから決めたらええやんかて知り合いに云われましてな、ほんで治るかどうか、その手術をした方が良いか診て欲しいですねん。畑ではまだ栗と柿をこれから収穫せにゃあならんけんね、えらいことなんですわ」
「へー、それは難儀ですなー、ちょっと診さしてもらいます、僕の指がね、身体を触りながらね、会話をするんですよ、大丈夫か、まだ元気あるかーい とか、悪い部分の周りに少しでも元気な細胞が在るかをきいてみるんですよ。そうするとね、案外答えてくれるんですよ、小さい声であったり、聞き取りにくい信号であったり、無口で何度か聞き続けてあげないと無視される場合もあるし、まあ十人十色ですけどね、ちょっと力抜いて下さいよ、うーん、右足を前に出せますか、痛みは無いですか、もう一度ゆっくり動かしてみてください。足の指を伸ばすようにできますか、痛くないですか?はい、オッケイです。これは相当無理のし過ぎで筋肉が酸化して退化していますね、ただ反応を見る限り、筋が切れているとか骨の損傷が無いようですから、間違いなく治ります。時間や期間は解りませんが間違いなく治ります、断言します、大丈夫です」
「ほんまですか、治る可能性があるんやったらお願いします。やっとくんなはれ、頼んますわ」
「倉本さん、まず脊椎などと云うところは基本的にはメスを入れては駄目です、人間の身体は宇宙のような世界なんです。ましてや脊髄辺りは神経の中枢のようなところですから切り刻むというのは命に関わると思ってまず間違いはない大切な場所です。逆に言うと、とてもデリケートであるがゆえに、細胞を起こすことで組織が生まれ変わり循環が蘇るという事、再生が最も解りやすい場所とも云えるんですよ。ゆっくりやって行きましょう、焦らないでください、それと今は仕事は極力控えてください。危険です、無理をすると取り返しの聞かない事になりかねないですから良くなれば何をやっても回復しますが今は逆でこれ以上悪くさせては駄目です、良いですか、宜しくお願いします」
大きく深呼吸をして、いつものようにしっかり手を洗い、気を引き締めて7センチの鍼を手に消毒液とガーゼを手に座椅子に腰を下ろしもう一度倉本さんの腰から肩、腰から膝をゆっくり確認して治療方法を頭の中で組み立てる。一旦立ち上がりもう一度身体全体を離れて眺め、大きく息を吐きつくして、静かに腰を沈めた。何時ものように、気配が無い。
ゴッドハンドと思える先生の手は、私の意識をさも歓迎するように、ゆっくりと脊椎から腰 肩 腿 肘 首の付け根に的確に鍼を打っていく。
「痛かったり、痺れたり、違和感が在ったらすぐに言ってくださいね、絶対我慢しないでくださいね、リラックスが一番ですから、眠かったらお休みななってもらって構いませんから、回復は睡眠が一番ですからね」
隣のベッドで治療中の料理屋のおかみさんの金子さんが誰にともなく呟きます
「うちは、気が付いたらもう終わってますねん、何や此処に昼寝に来とるみたいどすわ」
「最高ですよ、理想ですね、一番身体が免疫力を付けれる状態にあるという事ですよ。藻草の匂いで落ち着いたりもしますけどね」
僕はもう此処で助手をし始めて十五年になるが、未だに未知のことだらけだ。先生の手元を見ても理解できない事ばかり、これではいつまで経っても先生に近づけないぞ。試験で習ったことや、練習、習得した経験だけではない事が多すぎるんだよな。最初は一年のつもりが今では恐ろしく時間だけが過ぎているんだから、まいってしまうよ。この間は癌で腿の皮膚を口に移植した手術痕の治療後に指圧をするのを見ていて、診察が終わってから怒られたものね。細胞を起き上がらせる治療後にあの触り方はあり得ない、今は痺れているから余計に赤ちゃんをあやす様な触り方じゃないと新しい細胞は生まれないでしょうよ、何度も学習してるでしょ、忘れるんなら何度も記録をして記憶しないと駄目でしょう と耳にタコが出来るくらい同じことを言われているような気がするよ。
不思議だよね、どうしても同じことを何度も話すのは疲れると思うんだけど、その点もやっぱり先生が天才だから出来るのかもなあ、やっぱり凄いんだよ、今まで出会った先生って、ほぼ一年間付き合ったら終わりだから、なんか見て見ぬ振りをしてたんだと思うんだ。あんまりいい記憶はないからね、いやだいやだ、その点やっぱり僕は先生の助手としてこの仕事についたという事は、大学の助手の皆と一緒なんだな、そうだ、良し頑張るぞ
「山本君、お灸に火を入れてくれないと、もっと周りを見ないと、一番テーブル低周波チェック未だでしょう、どんどん遅れるよ 良く見てね 後二番は藻草」
「はいっ 」
天を突くような裏返った声が部屋中に響く。