人生の様      20141226

 

人生の様

ある時、ふと生と死を想い、偶然にも今年亡くなった人たちの事が気になってきた。不思議なもので、海ちゃんとの共通の知人の突然死、一つは癌による死亡、これは僕には結構響いた。僕が入退院を繰り返しているときに、亡くなったその夫婦は、僕の入院中に海ちゃんが近鉄電車で僕の所に洗濯物とおやつとおかず(口が開かず、普通の物が食べれない)を持って来てくれる時に、同じ電車で一緒になり、ああ、いつかまた夫婦で電車に仲良く乗りたい と思ったのだと病院でしんみりと聞いたのである。

人間とは、自分の逃れられない状況の中で、もがき苦しみ、それでも前を見ようと踏ん張っているのだが、身近な光景があまりにリアルに五感を刺激して、思いのほか言葉にならない足枷を嵌められたような衝撃に陥る場合があるのだ。

当時は、なぜか希望が電車の連結の隙間を縫って飛んでいきそうな不安と、目の前の光景が遠く彼方にかすんでいくようなエレベーターを降りるような肌寒い浮揚感におののいたのである。

生きる事の選択は様々な道が見え隠れしてきて、時として無くなる道もあれば、先が無い谷底に向かっている様に映る道が突然出現したり、砂埃が舞っているような灼熱の道が足を踏み入れると沼地のように足元が埋まり思うように動けない事も多々あることを感じている。

何が良い選択かは、誰にもわからないし、こうすれば良かった と云うのも何だか後から後ろを振り向いて勝手に創造をした産物でしかないように思ってしまう。

今を生きる ということが、どんなに素敵な事かを、今まで以上に感じていきたいと思う、それも知り合う皆と共に、そんなもんじゃないのか-人生ってやつは、悪くはない、良くもない、でも 楽しんだり、悲しんだり、怒ったりして心が転がるんだろうな、縦になったり横になったり、時にはひくりかえったりして時間との格闘に五感が打ち震えているのだろう。

生きがいを感じる事はそれは素晴らしいし、挫折を感じる事は望みが高いせいもあり、期待が大きいせいもあり、いずれにしても時間は等しく我々には与えられた唯一の平等なものであるから、気が付けば新しい明日になっている可能性は高い。

ただ、一人っきりでは、ふさぎ込むことが在ってもおかしくは無い。できれば愚痴を言える、楽しい事を伝えれる人が身近にいて欲しいとおもう。

相談できる身寄りがいれば、それにこしたことはない。

会話、対話のもたらす力は計り知れないものなのです。

心のドアをノックしましょう、どこかで誰かが話をしたくた待っているはず、動いてみましょう、まずは美味しかった食べ物の話でもしてみましょうか。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です