祇園祭と空

7月も30度を超える猛暑が続き、まだ梅雨も明けきらぬ折、京都では49年ぶりに「前祭」17日と「後祭」24日の2回に分かれ、150年ぶりとなる大船鉾が後祭りの最後尾を巡行する。

日本三大祭の一つであるが、それほど僕は馴染んでおらず、京都しょうざん鍼灸院に通い1年5か月で、仲が良くなったタクシーの運転手は2回に分けるのは考え物で、前祭りの日にちが変更され一日短くなり、

歩行者天国も一日のみとなったらしく、後祭りは大阪天神祭が25日にある為、わざわざ24日は京都へ来る客は増えることはなく、減るだけだとの素晴らしい分析を披露してくれた。

前祭 では、鴨川沿いに、どうもパイプ椅子を並べて、山鉾の巡行を見るためにその席を人籍3240円で販売するそうな。

ただしパイプ椅子の場所には屋根もなく、炎天下に座って巡行を何時間も待たねばならず、1時間から2時間で脱水症状のように疲れた客は、実際の目当ての宵宮祭りの神興を見る事も出来ず、疲れてホテルに帰る人が多く出るらしい。客は、わざわざ東京からとか祇園祭を見るために来ているらしいのだが、疲れただけで何も見ていない人が結構いるらしい。

前祭 はそれでも夜中の2時頃まで歩行者天国が続きその日だけ賑やかだったらしい。

暑い夏、祭りも考え物である。

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咽頭がんと向き合う時  20140717

今まで、毎年人間ドックに入り、検査を常に行ってきたところで、僕は咽頭がんが発見された。それがリンパに転移、食道の中にも膜が張ったような癌が見つかった。その後、様々なペットなどの検査を経て、右の頬にも癌が見つかり全てを除去したのである。

すぐに除去することが果たして良いのかは、本当に疑問であるが、咽頭癌は扁桃にできる可能性が一番高いそうであるが、癌全体の1パーセントに満たない珍しいがんらしい。治療方法は、軽度の場合は手術で対応、進行している場合は、放射線治療なしでの治癒はありえないらしく、抗がん剤治療をそれに加えることが主流らしい。

治療後の副作用で、口のただれや味覚の低下などの影響が出る場合もあるらしい。

僕の場合、声帯損傷、唾液が出ないために喉に違和感が残り、様々なバランスが崩れ、整体マッサージ、鍼灸医療、呼吸法の三つ巴で毎日のリハビリを行い、約一年半近くで、抗がん剤を終わらせることができ、何とか復活の手応えを感じている。

味覚については、以前よりもっと敏感であり、ただ繊細以前の問題で、未だに舌が痺れているのだ。

胸の締め付け、頭の痛み、頸の痛み、肩の痛み、足の痺れ、解決しなければならない問題がまだまだ山積である。

焦らず、じっくり、綾取りのようにほぐしていくしかしょうがないよね。

喉ちんこ部分の移植個所の動きがしっくりしないのは喉の動きを変えるしか無さそうな気がする。

やはり、試練とは仲良くするのが得策なのだろう。どえれえ大変じゃわい。

京の香り  20140716

京都は、小学生の修学旅行を手始めに、大学生時分より何度となく遊び歩いた。観光地がほとんどであるが、蕎麦と豆腐が大好きであったので、人づてに聞くお店にはわざわざ足を運び食したものである。

家庭を持ってからは、子供も愛犬も同行するので、入れるお店、観光すら限られてしまっていたのだが、病気を患ってから、週に2回とか3回をもうかれこれ一年半に及び、流石に狭い路地、情緒ある商店街など至るところに妙に精通する。

ただ京都駅から、しょうざん(松山)にタクシーで往復するだけなので、偏っていることは間違いないであろうが、季節ごとに、運転手から得る情報や、僕から質問をしたり、この期間になると、行き帰りの運転手が以前と同じ人にも出会うのである。

古民家の表情、だし巻き専門店、ラーメン屋、漬け物屋、ステーキ屋、和菓子屋など枚挙に暇がない。

がしかし、それらの味を理解しているのではない。外観、運ちゃんからの情報であり、耳どしよりとは正にこのことであろう。

あくまで京都行きは、しょうざん鍼灸院での治療がメインであるから、これから少しづづ視点を変えて、いろんな場所に足を運んでみたいと思い始めている。

これから先、まず一年は中井先生の針を受けに通うはずで、一口雑談のような 新しい路地裏の京都発見伝 なんて良いかもしれないね。

一般的な見解はわからないが、僕が一年間を通して解った京都という街は、伝統文化が根付く土地であり、住民が無くしてはならないものをしっかり理解しているように思えてならない。

観光は、伝統の保存と地道な住民による文化意識向上のなせる技であろう。観光客が年中絶えない文化遺産はまだまだ世界を魅了して行くはずである。

タクシーが多いのも、一般客と観光客がいるからなのであろう、通常の道路では、大阪などと比べると、はるかに普通車が少ない。地下鉄やバスなどが十分機能しているのかも分からないが、道路が混みすぎていて普通車では疲れるような気がする。

当たらずとも遠からずかな?

田んぼの便り  20140715

僕の故郷には畑と田んぼがある。小さな山天神様を祀っている天神山があり、その昔その神様を管理していたのが僕の家であったのであろうか、僕は天神くんと呼ばれていたのである。

8歳ぐらいのとても暑い夏、我が家が使用管理している田んぼは、近くの2区画だけで、他は遠いので、ほったらかしにしている。

田んぼでは、米を主にして、野菜、果物を作っていた。特に夏休みには僕の命をつないでくれる大切な場所である。春から、ニラ、ネギ、大葉、ナス、キュウリ、トマト、マクワウリ、瓜、スイカ、畦道に植える枝豆が、緑の稲穂の横でわんさか実のである。

僕の家だけではなく、他の田んぼもほぼ似たり寄ったりであったと思う。

幼少期より田畑を管理してきた僕にとってはことスイカ、マクワウリに関しては今ではいろんなところで紹介されているが、苗に実った果実は1本につき2個まで間引き、日付を付け、収穫時期を明記し、予定を立て日々チェックするのである。

当然大きく育てる基本であり、最低でも土曜日曜は進行状況を確認しているし、水路の毎朝の確認もあるので、ほぼすべての収穫時期、大きさなど父も僕も把握している。

何故か夏休みのとある日に、姉貴と姉の友達連れて、水泳に行く羽目になった。何時も学校指定の池か、暑い時は山奥の冷たい水の池かの2箇所を行っている僕は、教わる以前に勝手に泳げたので、どこでも自由に行っていたのである。山奥の方の池は水が青色で綺麗で魚はハヤ、赤モツ、黄モツ、青モツしかおらず、指定の池は鮒、鰻、カラス貝などがいて結構汚れているので、気持ちのいい方へ行こうということになり、泳ぎの人はほとんどいない池に連れて行ってやろうとカッコをつけてしまった。

同行二人には浮き輪を持たせいざ出発の折、休憩を30分で入れなければならずどうしたものかと考えた挙句、マクワウリ、スイカを冷やして食べようとつまらない考えが頭をよぎった。トマトやマクワウリは数が多いから少々食べても構わないのだが、スイカは、ばれるわな、日付あるし、収穫時期もわかっているし、でも泳いだら腹減るし暑いわな、などと幼心を悩ませた末

25センチ強の中ぐらい、まず甘いだろうという形のものを取ることにした。ついでに日付記録は捨てた。怒られるのは覚悟の上、しょうがない。

池で、重しようの石にスイカを括り、底に沈め冷やす。3メートルくらいの水面下で30分ほど冷やし、美味しく三人で食べた。勿論、数日後、おやじの拳固が頭に飛んできたことは言うまでもあるまい。

家畜とペット  20140713

僕の幼少期、まだ幼稚園に行っていた頃、昭和37年か38年だと思うが我が生家の隣には、牛を飼っており、8匹ほどいただろうか、とにかくまず匂いが凄い。藁の匂いと糞の匂いが混ざり、時間によってふと匂ってくるのである。

朝な夕なに隣人が2匹ずつ散歩をさせるのであるが確か記憶ではおじいちゃんであったと思う。牛に比べるとあまりに小さかった爺さんが記憶に残っている。

さて、彼らは一般の道路を-当然舗装はされていないし、デコボコの道であり、(車は田舎には3台くらいしか無い時代)雨が降れば水溜りが所々に水すましを引き連れて君臨する道路を所狭しと闊歩する相撲取りのようにのっしのっしと爺さんの後をゆっくりついていくのだが、何故か彼らは良くウンチをする。歩くとお腹の具合が良くなるのか、相当量の糞が道路のあちこちに転がるのである。

これが凄いのだ、暖かいのか、糞からは湯気が出ており、藁臭い糞であり、どちらかといえば固めである。何故かというと、爺さんは田んぼが横にある場所ではその場で地下足袋の裏でポンとサッカーボールのように糞を蹴り、田んぼに放り込む。うーん、他所の田だろうに、肥料ということなんだろうと子供心で思うのだが、僕は 道路脇の田んぼでは絶対游ばんとこう と心に決める。

昔は、この牛達が、それぞれの田を耕す時に活躍していたのであろうが、耕運機が田舎に現れたと同時に、彼らの居場所が居心地の良くないものに変わってしまったように感じる。

それから5~6年後、大阪万博の前には、すべての牛がいなくなった。隣の家は、隣町で肉屋をやっており、牛を捌いて並べたと、僕は勝手に思っている。

我が家で飼っていた鶏は、当時10匹程いて、餌をやり、いくら可愛がっていようと、卵を産まなくなり、年を取ると、綺麗に全て食す、つまり鶏を往生させる、成仏させることが、幼い僕には当たり前のこととして記憶に残っている。

有り難く頂戴するのが、生物に対する道徳と思っていたし、今もその環境化で育ったことに感謝している。

ただ6歳で、鉈(なた)で絞めろとオヤジに言われ、失敗して首を綺麗に切れなかった僕は、今でも自分の往生際の悪さの実態を忘れない。苦しかっただろう鶏、ごめんよ。

駐車場の猫  20140712

我が家を中心に、半径500メートル圏内で野良猫は15匹はいるだろうと予測している。

近所の猫好きの方達(5名程)が野良猫を公園で育ててやっており、凄いのは全てのメス猫は、避妊手術を施してやり、朝、夜の餌をやり、糞とか散らした餌の片付け、掃除を毎回交代で行っているのである。

冬はダンボールの寝床に毛布やタオル付きで設置、翌朝除去までを毎日徹底して行っていることである。

彼女達は、人間が勝手に猫を飼いどんな事情にしろその猫を捨てた為に行き場所を無くし野良と化した猫たちを理解しており、せめて生きることを応援してやろうと皆んなで協力し、育てているのである。そして最も大変なことは、死の間近では、自宅で看取ってやり、焼却までの面倒を見続けていることである。

布施のポッポアベニューにある動物病院の先生も力を貸してくれており、先だって我が家の裏、駐車場にいる猫がどうも障害を持っているにも関わらず妊娠しているように写り、早めの避妊を考え、大阪市からの避妊援助金5000円が支出されるらしく、その動物病院で診てもらうと、1歳にやっとなるかという障害猫には、小さな身体になんと5匹もの赤ちゃんがお腹に居たそうである。

今は、次第に慣れてきたのか、お腹が減っては縁側に顔を出し、叫んでいるが、お腹を痛めた記憶はもうないであろうと思う。

軽くなった体に感謝しているのではなかろうか?

近頃、以前に増して近所の公園に猫を捨てに来る人がいてどうしようもない。お願いである、捨てるなら、飼う事を最初からやめなさい。

動物も、人間と同じで 生きているのだ。ましてや赤ちゃんは手を携えてあげないと生きてはいけないものである。 命を大切にしたい。

駐車場に寝に来る障害猫は近所の猫好きの方達には周知の事実で、時折どなたかが勝手に餌をあげたりしているようである。

我が家では、つかず離れず、いつの間にか海ちゃんは ひょこたん と名前を付けていました。今は、雨降る中、そのひょこたんは何処をうろついているやら、、、。

犬と僕の関係  20140711

我が家の娘、ミルキーは15歳と半年で、おしっこを漏らして、膀胱炎になったようである。歩行は、困難を極めており、後ろ足が綺麗に動かず、腰が立たず、引きずる足からは血がにじんでおります。

通常は行きつけの動物病院で今まで検査、ポリープ除去手術などをして頂いたのですが、待ち時間と犬への負担を考え、近所の獣医に行き、内蔵のエコー、今では人間並みの検査を行い、薬も全く人間と変わらないのである。

海ちゃんの友人から、犬の鍼灸治療をする病院も教わり、そちらでも度々診察を受けている現状ですが、どうもわが娘は病院と云うだけで怖くて仕方がないようで、待ち時間の間中、何時間も震えているのであります。

病院の鍼灸は回数を減らし、僕がお灸をし、マッサージをするように変更すると、何と気持ちよさそうにいびきをかいて寝ています。当然、日によって違いますが、すこぶる以前より後ろ足が、しっかり動き出し、腰も立とうとする意識が伝わっており、ある程度歩けるようになってきています。もちろん完全に治るのではなく、海ちゃんの友人からバギーを借り、散歩のほとんどが歩きではないのですが、途中の公園の土の上と、帰宅途中の50メートル程度ですが、思いのほか彼女は頑張って歩き始めていて、嬉しい限りです。

いつまで生きてくれるか、犬の年齢はいろんな説があり、確かな年齢はわかりませんが、ほぼ90歳~100歳くらいでしょう。

できれば、あまりボケることなく、何時までも騒いで吠えまくり、気がついたら、あら、息をしていないね、なくなったかななんていう、安らかな死、寿命であれば最高でしょう。僕もそうありたいものです。

我が家の娘は、僕にはまず吠えません。絶対噛みません。そして、体調の悪い僕を必ず避け、遠くに行き、そっと心配して見ています。

どうもいじらしい娘です。勿論、相当贔屓目になっているのは承知ですがね。

明日の為に、しっかり休もうね。近所の子供たちが何時もわが娘をからかっていてくれたので、その分精神年齢だけは、しっかりして若いんでしょうね、

ほとんどの散歩は、海ちゃんがやってくれているのです。僕は少し顔を出すだけで今は精一杯、歩きはまだまだ持ちません。

彼女は一日の大半は寝ていますが、たまに目を覚まして誰もいないと大騒ぎをするようになりました。甘え始めたおばあちゃん、少しは我慢をしてね。

お休み。

世の中男と女 今はそれだけではないよね  20140702

男女雇用機会均等法の指針が2011年12月見直しされたのです。セクシャルハラースメントが、異性、同性にも適用され、性的な内容の噂話、言動、行動など厚生労働省雇用均等政策課が主に男性が 性別に関する嫌がらせ(ジェンダーハラースメント)や、性別役割分担意識 が良くないという。

僕には理解できない分野に少し触れるが、男と女の社会で、同性の恋愛も僕には理解が出来ない。もちろん、否定をする気はないが、世の中は男と女がいて社会が出来ていること、又、他人が存在する社会であるから、共存、競争、美意識、見てくれを人間は意識しているので、自分一人なら何もないでしょ というのが僕の意識である。女性は女性、美しくもあり、怖くもあり、守るものと思うのは、時代錯誤の私ということか。

 

これからはもっと社会が高齢化するのだ。大きくとらえれば、セクハラはつまらない、一時しのぎにしか過ぎない事で、やめましょうにしたいものである。じいさん、ばあさんになって(実年齢いくつを当てはめるか、それが問題だ)

からでも、楽しい事、嬉しい事、高齢者用の旅行企画、高齢者用のお見合いなど、いくらでも考え、取り組む事は出来るし、高齢者の遊び場所も公園と同じで必要である。ゲートボール、パターゴルフだけでなくもっと皆で増やしましょう。ここに子供が入れば尚いいですね。ビー玉、トランプ、新しいオセロっぽいゲーム、特にオセロなどは簡単に考えれる会話もできるゲームは良いと思いますね。

 

家族、地区、色んな場所で話し合いましょう。これからの社会の課題を。新しい社会の在り方、人と人の関わり方を見つけませんか?

案外、情報化社会だからこそもっと身近に老人から若い人までが笑い集えるゲームでも作りますか。

おいしい野菜の種   20140629

次世代に馳せる思い 当然であるが、我が二人の息子、アール君と、なお君たちも含んでのことになるが、健やか と云う言葉には素晴らしい意味があるのではなかろうか?

読んで字のごとしと云うのであれば、健康であること、すなわち体が丈夫であり、心身が健全であるさま となる。

まず健康から考えると、自然の中で育まれたものを美味しく頂き、生きとし生けるものを大切にする、野に息吹く野菜、果実、川で育つ魚、海藻、蟹、次いで鶏、豚、牛などの家畜類、さて、何処まで行けば健康食と云えるのかが大きな疑問であるが、命を授かり、生きていく限り、命を大切にしたいと願うのである。

野草は、豊穣な土壌から生まれてきた。世界、特に日本では四季があり、各季節ごとに植物の芽、植物の葉、植物の実が出来てきた。生、茹で、焼き、蒸し、炒め、揚げを基本とし、乾燥、麹を加えて美味しい料理に変わっていくのである。

我々人間は、もともと自然と共存し、貝塚が示すように、今後を見据えた捕獲を生業としていたし、お茶で抗酸化物質カテキンを自然に取り始めている。魚も、イワシ、サバ、さんま、鮎、イワナなどEPA(エイコサペンタエン酸)血液のサラサラ効果を発揮する食品を主に、海藻、でんぷん、納豆、大豆,お酢に至るまで和の献立の基本が人体に良い物ずくしなのである。さらに山の恵きのこ、野菜のたまねぎ、にんにく、ワサビ極めつけは、梅干しと味噌に尽きると思う。

幸せな食文化に本来感謝すべきであり、もっと子供たちにも伝えたいものである。

私は幼少の頃より田畑を耕して、野菜、果物造りに関与してきた。我が家(田舎)では、鶏糞をやり、肥すなわちうんちを年に2回やり、農薬はまず使っていなかった。

田んぼに肥やりは大したことは無かった。これが畑になると大変で、一番高い処では三百メートル近い高さにある栗林があり、嫌な記憶は忘れないでいる。

栄養剤が高かったからかもしれないが、大根にしろ、白菜にしろ、大葉、枝豆など全て葉っぱに虫食いの部分が常にあった。トマト、キュウリ、ナス

全てに於いてもっと甘く、もっと素材のふくよかな香りと灰汁が存在していたのである。野菜の表面に、生命の息吹を感じていた。

生きるを思う NO-1  はじめのはじめ 20140625

幼少の頃より本当に丈夫な健康優良児に近かったのである。勉強も良くできた頃、進学校で剣道に明け暮れ、生徒会長にも誘われていた15の夏、突然腎臓が悪いと言われ、中学校時代に風邪を引いているときに無理をした結果の後遺症であると言われ、約8か月の入院をする羽目になる。

その地獄の期間での復活は余りに衝撃的であった。

まず、高校でもしたいことをして騒いでいたものだから、友達がまずびっくり、当の本人はもっとびっくり、6月の終わりに岡山の専門病院で言われ、誕生日を前に入院、夏休み後の退院を目指して入院したのである。

勉強のための参考書、毎日授業をきっちり記載して、毎週持って来てくれる女性の友達もいて頑張っていると、先生より勉強の禁止が出る、精神的にリ今日ラックスが一番とのことだが、普通が僕にとっては良いのであるがだめらしい。 そんなものなのだ。

唯、毎日朝早くから夜遅くまでしたいことをして一杯食べていた自分が、突然の入院で食事は当然腎臓食であまり美味しくなく、毎日が退屈な日々となって行った矢先、何度検査しても良くならず、10月の最終期限、ここで良くなっていなければ留年確定となるとき、仲良くなった看護婦、心配してくれている級友、背中を押されるように悲しくて仕方なかったが、封建主義の塊のような当時の私には、病院の屋上でひっそり泣く級友の女性(当時周りにどう映ったかは解らないが交際はしていない人であった)を目にし、悔しくて歯ぎしりをした。

 

来年から、学年違いか、、、こいつ先輩になんの、、、? へこむね。

 

病気は一向に改善されず、とうとう11月より、大学病院に移籍、再度あらゆる検査をし、入院となるが、大学病院と云うところは、病気の状況によってサンプリング、悪く言えばモルモットになってしまうのである。

 

このころより、毎日が虚構化していき、生きる意欲は自然と消滅していくのです。これは、気力が萎えてくるのです。それも気が付けば、だんだん歩けなくなるのです。歩こうとすると、立ちくらみを超えて、体中の血液が無くなるかのような状況になり、諤諤と立っていられない状況に襲われ、目の前は残像だらけになり、自分の立とうとする位置が解らなくなるのである。

 

 

 

 

静かにじっとして居たい、気が付けばベットで寝ていたい、そのまま意識が無くなりこの世を去るのだろうと自分で悟る状況に浸って行きます。世の中はこうして終わりを告げるのかと、本当に静かに、消えていきそうになる時

 

は、一日があまりに短く、起きている時間がほとんど5時間くらいで後は眠っていました。体重が38キロまで落ち、入院した当時からでは18キロぐらい6か月で落ちてしまっていたのです。

身長は170センチあったので、もう生きているのがやっとの姿でしょうか?

毎日が短く、自然に身を置いて空気のように流れている自分に、世の中は空虚なものであると思い、人生っていろいろであるものだと、死というものは気が付けばそこにあるのだな、海のようであり、空のようであり、野原のようであり、そのうち灰となり流れていくのだろうと思っていた。

病院では、毎日、血液を検査、血圧検査、尿検査、問診、どう考えても参考資料化した日々が余計に僕を蝕んで行ったのである。腐敗した人体とは、艶もなく、血流の暖かさもなく、いつの間にか階段が歩けなくなり、倒れて意識を無くす日々が訪れたのである。

 

やっと16歳、こんな人生もあるのか、短くも楽しかっただろうか?

日々が重くのしかかってくる灰色の死神雲に思えて仕方なく、唯ぼんやりと静かに消えるというのか、、

思いもしない出来事がある日曜日に起き予想だにしない激変が心を占領したのである。寡黙な父と、やせ細った母が二人で病院へ来て、父は長い時間外の景色を見るでもなくずっと立っており、母は僕の手を握りさすりながらずっと泣きっぱなしなのである。病院からは匙を投げられ、ただただ子供が不憫でならなかったのだ。何故か長い間この空間を自分が作っていることに悲しみを通り越して怒りとなり、泣きたくなる自分に腹が立ち、

大丈夫、心配すんなよ、絶対元気になる、泣かんといてくれ。笑うど。これからは絶対笑うど。もう僕の前で絶対泣かんといてくれ。あんたらより先に死なへん。

僕は叫びながら、手を強く握って言い続けた。泣きながら笑った母の顔は今でも覚えている。外を見ていた父が、うん、うん とうなづいていた。

 

それからは、何かに取りつかれたように前しか見ない、身に付けるすべしか考えない、全てが全身全霊を掛けた食事、呼吸、伊吹、歩行に至るまで血流が通い始めるのだ。これは僕自身が、生きていて良かった。両親のおかげだ

と本当に命を拾った瞬間なのである。

 

 

もちろん、高校一年生は二度経験し、同級生が先輩となる精神的に厳しい状況は常に卒業するまで格闘はしなければならなかったのであるが、小さい事と云えるまでは少なからず時間が必要であった。

 

高校生と云う、思春期で様々な経験をしなければならなかったことは、必然であり、後の人生に大きな変革をもたらす。

まず、自分と云う人間を客観的にとらえる事で、一途な考えとか人に耳を貸さないとか、引きこもらないとかを考えないと、当初は、運動は出来ません、体育見学が義務付けられ、授業のみ、要は勉強のみであり、出来る事の制限が発生する。

このまま大人になって何をする、将来何が出来る、一体これから何を目的に生きて往けばいいのかを答えが出ないまま、毎日否応なしに時間の経過をやり過ごしていくのだが、どうにも人生の迷路で右往左往している自分に嫌気がさしてくる。2か月ほど経ったころ、このままではだめだ、一つずつ変えていこう。今は、どん底なのだから、これ以上の下は無い、後は上がっていくだけ、怖いものは何もない、八方ふさがりは当たり前やな、 大したことは無い、上を見よう、空がある、土を掘って這い上がっても知れている。良し、

便所虫と一緒やな、上に、上に行くだけや、俺は一回死んだ人間やないか。それを生き返らせてくれたおやじ、おかんに対して恥ずかしくない、両親がどこで死のうが自慢できる生き方を自分で決めて取り組もう と心に誓って歩き始めた。 中身については、気が向けば掲載しようっと。