食道癌後の呼吸訓練という新聞紹介記事 

食道癌の手術は、食道を摘出して、胃を伸ばして繋げるのであるが、僕の場合は胃にも十二指腸との接合部に癌細胞があり、胃を半分にして伸ばしてつなげる食道の再建手術で、頸部、胸部、腹部の三か所を切開、一番つらかったのは、長時間約(9時間)に及ぶ全身麻酔、手術の侵襲によって術後の呼吸機能の低下、ましてや歯も抜かれたことである。

特に恐ろしいのは喉にタンがしょっちゅう溜まり、肺出力が弱くなり、肺炎や無気肺が起こりやすくなっており、呼吸器合併症がおこりやすい状況なのである。

僕が怖かったのは、気管にタンが入ると、肺炎を引き起こす可能性があるという事と、タンを綺麗に排出出来ない事のつらさである。

とにかくこれが苦しくて、ひとまず横を向いて痰を出やすくする、時々腹ばいでタンを出やすくする事が頸、顎を締め付ける痛みを伴い、自分にとって至難の業になっていきます。

食道癌手術後の呼吸リハビリの必要性を新聞や雑誌で見たのであるが、タンの排出以外は重要視していないのか、呼吸訓練は、僕の入院時、その病院ではインセンティブ、スパイロメトリー という機器、呼吸の基本、吸気量の数値を術前、術後に維持することが大切なのであろうが簡単に処理されたのだ。

唯、毎日の痰の排出に関わる部分は最重要項目とし、蒸気によるタン排出の促しを一日二回、約30分行い、相当の胸のもやもや、喉のいがらっぽさは解消されたと思う。

通常、食道切除再建術の呼吸器合併症の発生率は30パーセントもあるらしいし、肺炎の場合は、死に至るケースが多発しているのです。

有難い事に、もともと僕は、剣道とヨガで常人より腹式呼吸など事前に出来ていたのも功を奏した。

まさに、人と人の出会いとは有難いものである。

人間、何時、どんな状況になっても、愛する人がいること、守らねばならない人がいることが如何に生命に反映してくるかを悟るのですよ。

綺麗ごとではなく、現実とは、思いのほか、シンプルで明確な物であります。

食というものは、生命の根源であり、無農薬、すなわち地球が生み出した自然の生物、野菜であったり、肉であったり、全て自然界の産物、これらが新たな人体の細胞を作ったり、血流をしっかり往来させ命を育てていくのでしょう。

今は死んだふりをして、少しの呼吸で静かに息をしながら、新たな自分再発見に備えよう。それは良い案だ。

鍼灸治療を実感して思う事

僕の場合、他でも述べているかもしれませんが、癌が、喉ちんこ、喉頭、咽頭、口の中(頬)、右頸リンパ、食道、十二指腸と胃の接合部にありました。

合計、三回の手術をし、一度目が喉ちんこ、咽頭除去で約10時間、二回目は食道及び十二指腸と胃の接合部の除去で12時間、このとき通常と違うのは、胃を半分にして、引き延ばす治療でないと癌が取り除けなかったことです。そして最後の手術は、右頬の内側をすべて除去し、右足腿の皮膚及び筋肉(10センチ×20センチ)の移植、上右の歯の奥も怪しく除去したいとの要望で、大切な歯並びに骨の除去、リンパ及び右頸の筋肉の除去を施す。予定通りいかず、これも13時間に及ぶ手術で、海ちゃん、兄夫婦に心配を掛けつつ終了。2週間口を開いては行けない状況で、回復に合わせ、言葉が喋れない、口が開かない、食べ物が口に入らないの恐ろしいどん底に突き落とされてしまいました。

それでも海ちゃんなどの大きな応援で前を向くことができ、あらゆる方にリハビリ、鍼灸、整体等良い先生はいまいかと相談し、池内氏より、京都しょうざん鍼灸院の紹介を受け治療に取り組み1年を過ぎた。

そして今思うのは、良い先生に出会い、良くなっている現状があり、さらなる前を向いた回復治療、現場復帰が見え始めた処である。

体重も、病院は減ることに成ると云い、手術後54キロの体重は一時期52キロまで減ったのであるが、海ちゃんの食事の努力、様々な治療のおかげもあり、14か月後の現在、57キロから58キロまでに回復をしている。

何とか、60キロにはしたいものだ。焦らず増やそう。

鍼灸は東洋医学が長年築いてきた医療で、副作用が無く、経穴を刺激して、人間の身体のあらゆる部分を目覚めさせ、血流を良くし、生体エネルギー気血の流れを良くし、活性、再生を促しているのである。

ただ、中道先生は、患者(僕のこと)の意識、精神性、取り組み方によって結果が大きく変わるとの事である。

それは次第に僕にも理解できるようになってきた。人体とは、心が作り上げるものではないか? という大きな疑問で解決が逆に計れたことである。

心の在り方、気持ちの持ちよう、取り組む姿勢、心の処理、嫌なことを浄化するのも全て 心 である。

更なる人生を少しでも人の役に立てたいと考え始めている。

僕は、今の自分が今後歩もうとしている方向性等、楽しみで仕方がない。

まるで底なしの沼のような人であれ と思う。