はじめての事故

 

初めての事故 2014,8,1

しょうざんでの鍼灸治療が、先週26日より、ひとつレベルが上がりました。頬と顎の周りに針、パルス(弱電を通し毛細血管、神経に刺激を与えること)お灸を行い、次はうつ伏せで頭と首及び肩、背中に針とお灸をし、最後に、極細の針で頭から首、肩の右部分のしびれ、痛みを取るために手作業で酸化した部分に刺激を与えて、古い血液溜りや極度の硬化伸縮した筋に刺激を与え、再起させる施行をして貰っていました。普通の患者さんのほぼ倍に近い時間を要しています。通い始めて一年半近くになり、中井先生は悲惨な僕の身体と向き合い、僕の回復に一緒になって取り組んでくれています。本当に嬉しい限りです。時々先生が僕のことを必ず治るオーラがあると言ってくれていて、ついつい天照大御神を真剣に意識する僕なのだが、よくここまで来たな というのが本音であり、社会復帰出来そうになってきている。

さて、新しい取り組みだが、顎関節の弛緩作業に

入ったのだ。太道の試合では、顎が外れる怪我等は、しょっちゅう起きるらしく、都度先生はその治療に携わっているらしい。不思議なことは、口を開ける努力をしてはいけないということ、自然に大きく開くまで、無理はいけないらしい。本当に最近は自分でも変化に気づくので鍼灸が楽しみになっている。思い切り横道に逸れたが、今日はPLの花火の日であり、さぞかし賑やかな大阪に触れれるとワクワクの一日のスタートで、しょうざんでは、着いた時点で治療を早く始めてくれ終わりもスムーズで、タクシーも早く到着、京都駅までも相当にドライバーの凄さを発揮して頂き17時5分発の大阪バスに乗れたのである。

あまりの嬉しさに、海ちゃんに連絡を入れ、あっという間に東大阪長田駅まで着いたのだ、ここで喜びを覆す事態が思いもよらない形で衝撃が足にくる。ドン という音と共に急ブレーキをかけられ、僕の組んでいた足は、前座席の後部にガツンとぶつかり あー,痛ー という瞬間、バスと乗用車が接触する事態に出会う。急いで足を撫でながら具合を確認、まあ大したことはない、良かった、ドリンクフックを片付けていて、、。

乗用車の運転手が降りてきて、怒鳴っている。バスは乗客の降車をし、布施駅に向けスタートをしたとき、前方に横付けしようとした乗用車と接触が起きた模様である。

これは、単なる不注意であるが、乗用車の運転も荒いしウインカーを出していなかったように思うが、それ以上に、バスはストップランプのままでスタートを切っていたような気がする。それはいかんだろうな、結局警察を呼び、現場検証、名前、年齢、連絡先を控えられ、代替えのバスが迎えに来てくれるまで待機。

結局一時間の遅れとなり、布施駅に到着。

何をあせったか、小銭の入った精算箱を運転手は忘れたらしくしきりに本部に連絡を取り、小銭を用意して布施駅に向かって欲しいと手配をしている。緊急バスで、精算機能が無くチャーター用の高級バスのようであったから、ギャルの客たちは高級感に騒いでいたよ、もう遅れなんか関係ないように映ったので不思議な気がした。

つい愚痴の一つでも言いたい心境であったが、まあ良いかと彼女たちが和ませてくれたのである。布施で精算をして、駐輪場に行く時、一時間遅れで出発した京都からの大阪バスの姿が見えた。

何て日なのであろう。思わず、全身の力が抜けるような虚しい気持ちになってしまった。

海ちゃんに無事到着の連絡を入れ、あれくらいの事故で良かったことの報告をする。悲惨な事故がこのところ高速バスでは多発しているので、良しとするか。

どちらの運転手も最悪の心境でしょうから、何の怪我もなく自宅に帰れるだけで良しとするか。

布施駅では、イオンの前が乗り入れ禁止となっており、盆踊り大会を盛大に行っている。明るい電球と浴衣の男女が まあええやないか と言っているように見えた。

やたらとオレンジ色に光る蛍光灯が優しく迎えてくれているようだ。

自宅までの自転車を漕ぐ力は、いつになく弱々しい按配にて候。

 

 

明日の君

明日の君   201117

 

明日がある、今日の続きが始まる。

終わりがある人生だから生きる証を求める

昨日はこれからの為に存在したのだろう

今を生きる これから何をするかは

私自身が流れる河を泳がねばならない

人生とは清流、濁流、逆流、潮流、関流、貫流

とにかく予測できない事態が襲ってくる。

それを楽しめる自分がいるか、

わくわくする自分がいるか、

恐れる自分もある

逃げ出す自分もある

泣きたい自分もある

叫びたい自分もある

もっと自分を好きになろうよ

面白いぞ 君は 素晴らしいよ 君の人生は

時々鏡を見てみよう

さっきと違う私がいる

新しい私が見える

君は何を思っているのだろう

君は何処へ行こうとしているのだろう

君は何を見つめているんですか

人として、生を享受したからこそ、自分らしく、私は前を見つめていたい。

必ず、何かが見えてくる

もっと目を凝らして、しっかり見つめてみよう

新しい道が、曲がりくねった道が現れるさ

明日がある

誰も知らない明日がある

記憶の先

記憶のさき   20201116

高校生の時、友達に みつはしちかこ が大好きなやつがいた。

最初は変な奴と思っていたのだが、ついつい暇に任せて本屋さんでチッチとサリーを読んでほのぼのとする自分に気付いた。

本屋で過ごすことが多かった僕は、よく やなせたかし の絵本を見ていたようにおもう。

そこには、広い草原にポツンと一人の青年が膝を抱えて遠くを見ているのでした。

何が見えているのかわからないけど、ただ草原の風を感じていました。

なんとなく空を想っていました。

秋の匂いがそこには漂っているように感じていました。

毎日が迷いと無遊で地に足がついていないとわかっていました。

そんな中、ふと体中に電気が走ったような、強い力に惹かれるような錯覚をすることもあります。

それがわかるのに随分な時間が過ぎたきもするし、瞬き2つのようなきもします。

 

やなせたかしって、戦争を経験しているから、これだけは譲れないやさしさというものがあるようなきがする。

 

生きるということの不思議 うれしい たのしい かなしい くやしい

そんなことすべてが やっぱりとても素敵なことであり、だれかと共感できると

想像できないほどの感激に変わる

 

今の年代になっても、毎日喜怒哀楽を感じ、人生を楽しめているかをおもう。

 

いつまでもまだまだこれからだと言い続けていたい。

 

ふと本棚に手を触れて、すっかり忘れた表題に、また新たな思考がおきるかもしれない。

 

やっと生きるを楽しむ ということに気づいた。

 

なんでもやってみよう。 これからだ。

組立    2019630

組立                         20190630

小さい頃、兄からのお下がりの積み木を幾度も積み上げた。

四角の木の端っこがだんだん削れて丸みを帯びて複雑な立て方は難しくなる。

もちろん、四隅は手垢と汚れで黒ずんでいる。

いつもドミノ倒しで始まり、最後もドミノ倒しで終わる。

数が確か48個ではなかったかだろうか? 畳の部屋で、たたみのつなぎ目が来るとまっすぐに立てられず、少しずらすのだが、計算上は届いても、畳の淵の高さがじゃまをして、気が付くとまっすぐに倒れず、途中で止まることに違和感を覚え、何度も挑戦した。

すると時々、勢いと角度が思いのほか激しくなり 積み木のひとつが飛ぶように立てている積み木めがけてタックルをかますことが在る。

この時はどれもが驚くような速さで倒れて最後まできっちりとあっという間に終わってしまう。

ちょっとした立て方と積み木の足場の削れ具合で痛んだ積み木ならではの偶然に驚くのだ。

ただし、組立小屋はむつかしい。すり減った面が綺麗にかみ合わずまっすぐ立ってくれないから、とっかえひっかえで偶然を探すことになる。

そうこうしているうちに、工夫という事を自然と覚えていくような気がする。

時々幼稚園で遊ぶ友達が隣に座って笑いながら見ているような気になり、綺麗に組みあがる瞬間に(ほーら)と云いながら 鼻の下を人差し指でこすっているのだ。

誰もいないことにふと気づき、明日は外で遊ぼう と誰にともなくつぶやく。。

     すっ飛ばした記録      20190605

すっ飛ばした記録      20190605

今までの戦いの記録が少しばかり消えてしまった。

過去を辿ると 少しだけ落ち込んだり、ちょっとだけ感慨にひたってみたり、

3年間くらいの飛び飛びの記録が、記憶を呼び覚ます手段であったのだが、残念な気もする。

思い返すことは無かったかもしれないが、記録として、綴り直しとか、お話のネタにしたかったことだけは確かでした。

まあそれも仕方のない事、ここは新たな滑り出しとしてしまおうか。

常に戦い続けるには 日々これをいつも新たな幕開けとして思えないと、何処かで萎んでしまう風船のように、魂もしぼんでしまうような気がしてしまう。

右往左往することが続きすぎると、一体今何のために生きているのか自体が見えなくなってしまい耳を塞ぎたくなる。

単純に、生きることすら絵空事ではないかなんてつまらない、フラストレーションだらけの時間でしかないと思えてしまうのです。

この自分自身との葛藤はなかなか理解しては貰えない事はりかいしている。

だから、とりとめのないような言葉に意味が在るように思い込んで、少しでも希望の実をふくらませようと試みるのです。

かれこれ自分の人生の7年を (この癌闘病、復帰へのシナリオ) とするならば、余りに前に進まず、日々痛めつけられ、人間不審に陥り、何かの拍子に生きるきっかけを見つけ出そうとして、結局、ともだちと、我が息子と、家族、そして本当に生きる支えは 何おおいても 妻 の存在でしかありえない。

まだまだ成功、快復、復活、?、楽しい人生を取り戻すが一番近い気がする。

 

今どきの世間      20150108

 

今どきの世間     20150108

世の中がいつの間にか騒がしくなく映り始めた。昨年末のクリスマスのデコレーションでまず思ったのが、我が家から半径半キロには数十件のキラキラの飾りが出窓や植木や家門、壁面、庭一面などにそれぞれ競うように飾って寒空を温めてくれている様に僕には映っていた。

近所の子供がおばあちゃんと一緒に着飾ったおうちの前で写真を撮ってはしゃいでいた光景がよみがえるのだが、最近はめっきり装飾したお家が減り、景気を反映しての事かとも思うのだが、どうも違うような気がする。

御堂筋をはじめ、至る所でナイトスポットが出来、夜のバスツアーまでが在るほどで、外出推奨を促しすぎて、一般家庭で過ごすことが今どきの若者には必要なくなってきたのではなかろうか?

大阪城ですら装飾する時代になってしまった。そのうち、熊野古道年始めぐり青色街道 なんていって、青色LEDで飾り倒して初詣に行列ができる時代になるやもしれぬ。

お正月は、まず角松が見当たらない。以前は、玄関の脇に でん と鎮座していたし、お店の前にも、当たり前のように競って角松が飾られていた。

又玄関の上にはしめ飾りがどの家にも飾られていた。おまけに、車にまでみかん付のしめ飾りをつける輩までいたのが、今年はとんとお目見えにならないのは何故であろうか。

そういえば、凧揚げをする子供をめっきり見なくなった気がする。コマ回しなど論外、羽子板等ここ数十年音すら聞いた記憶が無い。

お正月の歌 を変えねばならないのではなかろうか、想像できない歌詞を唄わせるのは甚だおかしい。

そんなこんなで、正月が時代と共に変化変貌を遂げていると思えるのである。

僕の場合は正月といえば楽しみはおせち料理、カズノコ、煮しめ、黒豆、酢牡蠣、ナマコ、金時豆、牡蠣の雑煮、これだけはどうしても譲れないアイテムであるのだが、現在の僕の口の中の状況では、何とか無理をすれば食べれるが、非常に後で悲惨な痛みと、苦痛が顎と、のどを襲ってくる。

それでも僕は食す。それはただ単に生来の卑しさゆえに他ならないのだが、食すことで体の細胞が、少しでも息吹を感じ、目を覚ませばと願うのだ。

毎年、田舎の母や義理の姉等、忙しさと億劫さの両方で、少しづつレパートリーが減ってきている。これも、時代と共に変化していき、今は毎年おせちを料理屋にお願いしている。

疲れないで、のんびりと年を越すこともやはり大切な基本の行事でありたいと願い、大掃除は別で考えればいう事は無いのだが、、、。

罪と罰と尊厳と     20141216

 

罪と罰と尊厳と

何処で誰が何かをしている、すぐ目の前で有ったり、遠く離れている場所で有ったり、様々であろう。

過去の歴史の中では、あらゆる差別や、男尊女卑、そして抗争、人殺し、様々な事件が大きな記事になっていなかったのである。

それが今は新聞社や、衛星画面で見える事を国の判断のもとに即座に表面に出てくるし、ニュース性の優先順位でいかようにでも変化しているのだ。

昔は、情報収集手段が、テレビはチャンネルが三つで、新聞以外はほとんどなく、人づてに入る情報も偏見に満ちていたり、一方通行の情報であったのであろう。

当然であるが、携帯電話自体無かったし、電話機も我が幼少の頃は近所に数台しかなく、呼出しをして待つこと5分は当たり前、電報が主流であったと記憶している。 どんな時代錯誤を と感じるであろうが、実は大したことではなかったのである。それが当たり前で育っていれば、そんなに不便でもなく、今より五感で体験し体感する心の高揚が常にあったと思うのだ。

遊び道具は、道端に転がっている石ころであり、山に生える竹藪から竹を取り遊び道具を創る、竹細工を創る為に、竹を切り、鎌を使う事を覚えて、何度も手を切り、母親に怒られ、それでも毎日違うものを創ろうと取り組み、失敗を繰り返して、すずめを創ったり、水鉄砲を創ったり、竹とんぼを創った。

正月は一大イベントの凧揚げを自作して、田んぼの中を走り回ったのである。

運動靴が土がこびり付いて重くなり、走ることがつらくなるまで凧揚げで遊んで、帰るとストーブの上で、お餅を焼いて黄な粉を付けて食べる至福の時間が吐く息の白さと共に確実に漂っていた。

生きる事、死に向かう事、人生は過去も未来も同じ価値を有するものなのに何でここまで情報と云うものに左右される世の中になったのだろうか。

もっと、足元を見つめ直した方が良い事も在りそうだ。

どのみち同じことは起こらず、同じ時間は無いのだから、心行くまで納得のできる人生で有りたい と願うのは古い昭和の考えとなるのか?

その辺りは、生と死 と同じで本来不変の問題であろう。唯、戦争や被災などを被るわが日本、狭いながらも心は広くありたい、動けなくなったお年寄りが静かに人生の幕を閉じるのを、身寄りが無くとか、貧困で食事をとれなく死亡後20日経って発見と云う世の在り方は、狭い日本では無くしたい現象である。隣近所のお年寄りへのおすそ分け政府運動募金なんてないものかね。

ざれごと - 1     20141029

 

人生の教訓 ざれごと-1      20141029

僕は、生きていくうえで、様々な出来事に遭遇し、色んな考え方を持ち、今生きているのだが、その経験から、いくつかの大切な記憶の引き出しを出してみよう。

両親から引き継いだ引き出しや、拾った引き出し、先生から頂いた引き出し、友達と作り上げた引き出し、夫婦で作り上げた引き出し、子供に教えられた引き出し、気が付けば涙で出来ていた引き出し、ペットから授かった引き出し、書物から教わり経験を通して築いた引き出し等、誰もが気づかないでいたものがたくさんあるような気がするのである。

引出の い

良い 良い事ばかりが続くことは無い。でも悪い事ばかりが続くことも無い。唯思うのは、自分で歩みだす事が大切であると思う。そうすれば、何があっても納得するはずである。出来るなら、嫌なことは忘れるに限る。

愚かなことは反省し、繰り返さない事である。

物事は決して諦めないでほしい。先に何が在り、どんなことが起きるか、どんな出会いがあるか、全てが何かしらの意味を持っているのかもしれない。

人を愛せる事が出来れば、そんな素敵な瞬間は、生きていく最も素晴らしい事です。

一人ぼっちにはならないでください。

生きる力が半減します。もっともさみしい事です。

生きとし生けるもの、全ての命を見てみると、植物も、様々な虫たちも、あらゆる動物も、水中の魚たちも、それぞれの命が今を生きています。

人生は、地球から比べれば一瞬かも知れないけれど、人それぞれの価値は、希少なものです。

 

引出の ろ

ろくでもない これは日本語独自の表現ですかね、のらりくらりとして、何の役にもたたないこと、意味の無い事だと思うのです。

でも、そんなことは無いような気がしますね。僕は、全てに何らかの価値とか、必然とする意味、あるいはメッセージが在るように思っています。

それを探ることが楽しかったり、くやしかったり、つらかったり、悲しかったりするのですが、ついつい考えることが好きなのでしょう。

 

引出の は

歯がゆい なんとこれは人類史上に、人間にもたらされた感情ではないであろうか。

予定通り物事が運ばない とか、こうすればいいのに だとか、ゆっくりのんびりと処理進行する とか、そんな場合に発生する表現であろう。

今にして思えば、世の中十人十色、そんなことでびっくりしなさんな といったところであろう。年を取るとともに、いいじゃないの、別に。人それぞれだよ。

でも、こんな心持の一部が、機能性とか、便利と云った今の製品、もしくは情報処理技術が飛躍的に伸びる根本であったのかもしれない。

他の動物の世界には存在しない感情ではないだろうか。

とこしえまつり      20141019

P1000674 P1000673とこしえ秋祭り    20141019

台風一過後の秋晴れの休日、全国的な快晴を不思議なくらい耳にした本日、大学時代 の友人が、大阪上本町の高津宮で、とこしえ秋祭り を覗いた。

秋田からも知人が来て、一緒にコーヒーを飲み、歓談をたくさんしました。 つねおくんは、以前よりずいぶんすっきりと絞まり、大分スマートになっていました。 以前は、相当太めであったのですが、結局それは、ステロイドの影響らしく、身体を考えて薬を止めたら、痛いのは我慢をして慣れていき、身体は少しづつ元に戻ってきているらしい。やはり、きつい薬は、控えるに越したことはないとの話である。 最もだ。

今回の主催、せいちくんは恐ろしいくらい太ってはいたが、芸術活動自体は 永遠(とこしえ)と云う造形の舟の 船出の神事を行うようである。 小谷宮司と知人らしく、大きなイベントと化して3年目になるけじめの祭りのようである。

高津宮の氏子には菓子業に関連する方が多いらしく,テント店舗でお菓子とグルメの屋台も祭りを盛り上げていた。 ダンス、空手、歌舞伎、音大の演奏とシンセサイザーの奉納演奏とイベントも多彩で、町ぐるみでの大きな催しと化したスケールになっていたように思う。 僕は、体調のアップ具合も兼ねて、3時間ほど友人との話と、アートトーク三人の話を聞き、最後少し疲れがまし、途中退席したのだが、ほぼ聞いたと思う。 自分の体力がどこまで回復しているかを今は見るのが楽しい。

この高津宮は仁徳天皇を王神と仰ぐ神社であるらしく、866年に天皇の勅命により旧都の遺跡地に社殿を築いてお祭りをしたのが創始とされる場所であり、やはり、駅からも、上り,降りがあり、けっこう歩いての行き帰りで、何度も歩いてお宮の凄さを感じた次第である。 坂田藤十郎襲名記念絵馬、桂文枝師匠の碑もあり、もっとも地道に活動し、地域に貢献している落ち着く空間でありました。 さすがに帰りは、ゆっくりと歩いて駅に行き、電車と歩きで帰宅、疲れもありぐったりだが、何時にもましてお腹がすいていることが素敵であります。 知人たちは、高津宮で、食事兼酒盛り兼宿泊の運び、もっと元気になれば、又の機会に話したいものである。 ちなみに、後日つねおくんと話したところ、彼は絵画の先生方と食事に出かけて、お宮には遅くに帰り、酒盛りに参加したらしいのだが、あらかたは、夜中の一時にタクシーで帰宅し、5人がお宮に宿泊、中でもせいちくん他ひとりのふたりは朝になってもお酒を飲みっぱなしで、まだ話をしていたそうである。 馬力うんぬんより、気持ちがあまりに若いのであろう。凄い人たちである。

友人とのお別れ    20141008

 

友人とのお別れ   20141008

海ちゃんの友達であり、我が息子の同級生の親でもあり、僕の入院時に、海ちゃんが僕の入院病院へ行く途中の電車で友人夫婦に会い、僕が回復したら一緒に電車で外出したいと思っていた 今後の目標にしていた夫婦であったのだが、その後主人が頭痛と眩暈で脳腫瘍と分かり、入院 手術をし、わずか9か月で永眠になったのである。

その奥さんから最初に病状を聞いたときに、良い病院であるとか治療方法などを探しては海ちゃんと心配をしていたのです。

早く元気になって、ご主人といつか一緒にゴルフに行ければいいなと、自分に言い聞かせてリハビリに取り組んでいたのだが、中々思い通りにはならないものだ。

たまたま僕は、入院したままで会えていない母を見に、息子と車で岡山の病院に行くことが決まっていた為、お通夜と葬儀のどちらも行けなかったのであるが、その分海ちゃんがお通夜も葬儀も受け付けを手伝い、老犬を残して頑張ってくれていました。

女性はやはり、いざとなるとすごいパワーを発揮するものだと今回つくづく思いました。主人を亡くした奥さんは、永眠時は心ここに非ずの夢遊病者の呈をしていたと聞きましたが、葬儀はしっかりと喪主としてしっかりと話を述べられたようです。

以前は、時々僕も逢うことが在り、気さくな優しそうなイメージの女性でしたが、あまりに疲れか睡眠不足か、相当に痩せてやつれている様に聞きました。

自分たちの事のように置き換えてしまって落ち込むわけにもいかずご主人の分も今後の人生を楽しんでください。悲しんで、落ち込んで、でも喜んで、笑ってください。

お子さんは27歳にして大変な経験の中、大きく変わったと聞きました。

確か僕と同い年であったように思いますがこれからも海ちゃんを宜しく、ときどき遊んでください、楽しい話をきたいしています。

やはり、毎回葬儀では、蝋人形のように肉体ではないように感じるとおもってしまいます。生きている間に、思い残すことの無い人生にするために、やっぱり復活しよう。

ご主人の冥福を祈ります、いつかご主人の分もゴルフで遊べるようになろう。

その時は、僕の打つ球で、一緒に遊びましょう。右頸の筋肉が無くあまり力の入らない右手になってください。リハビリに新たな目標が出来ましたこと、応援ください。